能島の村上武吉は三島の連合水軍を率いて安芸厳島合戦(1555)に毛利方に加担し勝利に貢献しました。
この後も武吉は毛利にほぼ従属していますが、時に本拠の能島城に立てこもって反抗するなど、陸の武将とはやや気質の違いがあるところを見せています。
摂津木津河口海戦(1576)では大勝しましたが、二年後の同海戦で九鬼嘉隆の鉄甲船に大敗しました。
秀吉の海賊禁止令などにより衰退していきました。
小中型船による戦術を得意とし、火矢、焙烙などの武器に工夫があったようです。
付近を航行する商船から「帆別銭」とい通行料を主な収入源としていて、交易にも関係していたようです。
信長在世中の対毛利戦のとき、村上武吉は秀吉の熱心な勧誘を断って毛利方に味方し続けたため、秀吉の時代になるとこのことが影響して苦しい立場に陥り、秀吉の怒りを買い能島を追われました。
天正16年(1588)に出された海賊禁止令は、事実上、能島水軍を標的とし、その活動にとどめさる法令でした。武吉は海の拠点を奪われ、水軍の将としてはすべてを失いました。
その後、武吉は筑前(福岡県)や長門(山口県)、安芸(広島県)竹原を転々とし、慶長9年(1604)8月22日、周防の屋代島(山口県大島郡周防大島町)で没しました。享年72歳であり、墓所は大島町の元正寺にあります。
武吉の子・元吉と景親は毛利・小早川に従って朝鮮で戦い、関ヶ原合戦では西軍に所属、元吉は伊予・松前城攻めで戦死。景親は戦後、毛利家御船手組頭役になるなど、元吉と景親の2系統は三田尻で船手衆を務め、朝鮮通信使の警護をおこなっています。
村上水軍は、鎌倉以前から続く伝統的家系でした。
古くより瀬戸内海の制海権を掌握しており、周りの家の水軍として存在しつつ、自主的に海賊活動(といっても海域警備など)を行っていたそうです。
その力は戦国に置いて中規模大名程度の力があったとされています。
まず、親密な関係を築いた毛利家が中国地方を制覇したのが台頭の一因となります。
他、当時としては画期的な焙烙作戦という、火を相手の船に投げ込むという戦法をとっていたのもあります。当時は木船がほとんどだった為、信長配下の九鬼水軍の鉄甲船が出てくるまでは無類の強さで、周りの三好水軍などを撃破しておりました。
以上いろいろと書き連ねましたが、やはり一番の要因は毛利家と繋がりを持った事にあるでしょう。
それを言うなら織田家の九鬼水軍も、と思いますが、村上水軍の方が武勇伝的に名が広まり易かったんです。
陶晴賢討伐の為に、荒れ狂う海を渡りきったなど、そういった話が囁かれるうち、村上水軍は戦国最強の水軍と呼ばれるようになったんでしょうね。
生没:詳細は不明(1526~1543年前後?)
出身:伊予国
一族:(父)大祝安用、(兄)大祝安舎、大祝安房
家紋:折敷の内に三の字
正しくは大祝鶴姫(おおほうりつるひめ)。伊予国大山祇神社(愛媛県大三島)の大宮司・大祝安用(おおほうりやすもち)の娘として生まれる。
元来、大祝氏は神職の家系であり戦場に立つ役割はなかったが、伊予河野氏一門に加わっている経緯から、陣代(主君の代理として陣頭に立つ役割)として一族を出仕させることがあった。 現存する重要文化財の中でも唯一無二の女性専用甲冑を残した人物です。
鶴姫が16歳になったとき、中国地方を牛耳っていた大内氏が大三島に攻め込んでくるという事件が起きました。
鶴姫は「大明神のご神託が下ったぞ。今こそ戦わん!」と宣言するや長い髪を一つに束ね、鎧姿で戦場に躍り出たとされます。
その姿に三島水軍は奮い立ち、猛然と反撃を開始し大内水軍を打ち破ったのです。
「村上水軍の娘」の中では、このように姫が自ら船に乗り水軍とともに戦う戦法を「鬼手」という戦法として紹介されています。
この「鬼手」は村上水軍の禁じ手とされていました。